僕の備忘録

今日という日を忘れないための、備忘録です。

避難所1日目

 義父母、特に義父は自宅を離れることを頑なに拒んだ。多くを口にはしなかったが、要するに避難所に対する抵抗感と、勝手知ったる自宅の方が安全だし安心していられるということだったのだろう。現在家の状態がどのくらい危険なのかわからない状態で、義父母を残していくことに躊躇いはあったが、さりとて、幼い子供を大人の都合に付き合わせてしまうことの方が僕には抵抗があった。結局、義姉に義父母を任せ、僕らは避難所になっている中能登中学校へ向かった。

 仕事柄、災害があれば避難所を開設して災害対策に従事する立場なので、なんとなく避難所がどのようになっているかは想像ができた。ただ、これまで起こった風水害などで避難所を開設した際に避難してくる住民は数家族程度で、むしろ待機している職員の方が多いなんてこともザラだった。避難所に避難している人なんてそれほどいないのではないか、そんなことを考えながら現地に向かい、到着して目に入った光景に驚いた。校内の駐車場は既に溢れかえり、入りきらない車が中学校前の道路に路駐し、そのスペースもなくなりつつあった。一体どれほどの人が避難してきているのか、とにかくスペースを見つけて路駐し、入口と思われる場所に向かった。

 避難所開設については、恐らくどの自治体もマニュアルを持っていて、基本的には体育館など大きな施設の前や入口に受付を作り、避難者名簿を作成したり、そこで毛布など最低限必要なものを配ったりと、そういった初動対応を自治体職員が行う。ここもそういった感じになっているのだろう、そんなことを考えながら中学校に入った。玄関口には緑のマットが引かれており、そこで靴を脱ぐことになっていた。靴を脱ぎ揃え、2階にある体育館の入口まで行くと、長机が二つ並び女性が座っていた。ただ、机の上には何も置いておらず、毛布があるという雰囲気でもない。人が並ぶという光景もないので、どうにも勝手がわからず、とにかくその女性に話しかけることにした。

「受付はどこですか?」そう尋ねると「受付…というのは無いんですよ。あら、小さい子がいますね。ちょっと誰か、案内して!」女性は声を張り上げた。どうやらこの女性は職員というわけではないみたいで、かといってどういう立場でここにいるのかもいまいちよくわからない感じだった。ほどなくして、中学生ぐらいの男の子がやってきて「僕が案内しますね。」そう言って、ついてくるよう促した。なんだかよくわからないまま学校の長い廊下を歩く。廊下を歩くたびに出会うスタッフらしき人の面々を横目に見ながら、ふと、この避難所は、いや、もしかしたら今この能登半島に開設されている避難所は、職員がどうとかではなく、子供から大人まで、動くことのできる人がボランティアとして集まり働いているのではないか、そんな気がした。この非常事態に、自分たちだってきっと何かしらの被害を受けているだろうに、案内をしてくれている男の子に感謝をするとともに、ひどく申し訳ない気持ちになった。

 割り振りとしては、大人だけの健常な避難者は体育館に通され、その他各教室には恐らく介護を要するお年寄りが、或いは小さな子供のいる家族が通されているようだった。僕らはパソコン教室に通された。そこには既に1家族おり、赤ん坊と1歳程度の子供、その両親と祖父母、一家で避難しているようだった。僕らは教室の対角線に位置するところに座り込んだ。パソコン教室の床はマット敷きだったが、ひどく硬かった。加えて、とても冷えた。確かに横になることはできるが、寝ることはできない。ここで寝泊まりするのであれば、布団や毛布類は持参するよりほかない。一旦家に戻り、布団や毛布を取りに戻ることにした。避難所から出る途中、通りかかった体育館の前にはホワイトボードが出され、現在の状況が書き出されていた。避難者数の予測や避難場所の計画など、迷いながらも書き出されたであろう避難所開設に係る情報の中に気になるものを見つけた。

「午後10時頃から断水」

 時刻は午後8時30分。とにかく家に急いだ。家に着くと、義姉が玄関入ってすぐの廊下に布団を敷いていたが、数分おきに揺れるため、これは無理と判断して、家から出てきた。僕は事情を説明し、車に入るだけの布団や毛布を積んで、その場を後にした。

 諸々の荷物をパソコン教室に運び込み、断水前に顔を洗い、歯を磨いた。学校は相変わらずひどく冷えた。敷布団は1つしか持ってくることができなかったので、長女と次女と妻が使い、僕と長男は掛け布団を敷いたその上に毛布をかけて寝ることにした。緊急地震速報は鳴り続けたが、午前2時に鳴ったのを最後に、その晩はアラームも眠りについた。

帰宅、迎える夜

 このような状況でも、家は多少ものが落ちた程度だと思っていた。無事家に着くと、皆外にいた。長男が飛びついてきた。自分を残して皆死んでしまったのではないかと不安になっていたらしい。お互いの無事を確認しあったのち、家の中を覗くと、信じられない光景が広がっていた。

 家中のものが散乱しているとか、そういう程度の話ではない。壁は剥がれ落ち、窓は割れ、瓦が落ち、食器棚が倒れ、皿という皿が割れ、歪んだ襖は開かず、まさに惨状だった。僕らは気が付かなかったが、1度目のアラームが鳴った時、震度5程度の地震が起きていたらしく、その時点で一旦外に出ていたとのことだった。1階の寝室や台所、2階部分は悲惨なもので、もし地震が起きた時このいずれかの部屋にいたらきっと助からなかっただろう。余震があったおかげで、命が繋がった。

 家の中に取り残してきたものがたくさんあるが、余震による崩落に飲み込まれたら、命はない。震度3〜5の余震が絶えず続く中、家の中に入るのはあまりに危険すぎた。本当に必要そうなものだけ取りにいく、緊急地震速報のアラームが鳴るたび急いで外に出る、その繰り返しだった。

 午後5時30分を過ぎたあたりから、冷え込みが急に厳しくなった。夜が迫っていた。街灯などといった頼れる明かりはない、崩落の危険がある家には入れない、しかし寒さを凌ぐ術を持たないまま夜を迎えれば、次に訪れるのは凍死だ。なんとか家の中から無事な毛布などを持ってきて庭に放り出し、一先ず車の中で暖を取った。緊急地震速報が鳴り止まない。揺れを耐えることはできるが、車の中で暖を取っていても、いずれガソリンが尽きる。ふと、外の物が湿っていることに気づく。慌てて毛布に触れると、毛布が夜露に濡れていた。このままでは貴重な毛布も使えなくなってしまう。急いで毛布を車の後ろにしまいこむ。

 時刻はまだ午後6時にもなっていなかった。凍えるような寒さの中、満点の星空が広がっていた。車の中で夜を明かす、この非常事態であればそれも致し方ないといえばそうなのだが、4歳と2歳にそれを強いるのは、あまりに過酷だった。子供達だけでも、ちゃんと横になって寝かせたい。幸い、中能登中学校が避難所として開設されたと町内放送で流れたため、とにかく僕らは避難所へ向かうことにした。

被災

午後4時6分。

 けたたましく携帯が鳴る。久々に聞いたこの音、いつ聞いても心臓に悪いし、嫌な気持ちになる音だ。ただ、ここ最近はこの音が鳴ったところで大した地震が起きたということもなく、うるさいなあ、と思う程度だった。

 僕は忘れていたのか、それとも初めて聞いたのか、全く記憶にないのだが、このとき地震を知らせるアラームが2種類あることに気がついた。よく聞くアラームは、それに併せて「緊急地震速報 石川県で地震発生 強い揺れに備えてください(気象庁)」とポップアップが出る。その後続けて鳴ったのが初めて聞いたアラームで、ピンポンパンポンというチャイムのような音とともに「大地震発生!緊急地震速報!強い揺れに警戒してください。窓ガラスから離れてください。上から落ちてくるもの、横から倒れてくるものに注意してください。(七尾市)」というポップアップが出た。やはり、こんなものを見た記憶はなかった。

 交通量は差して多くなく、200mくらい先に1台、後ろに1台、対向車もやはり100mくらい先に1〜2台いる程度だったが、どの車も緊急地震速報を聞いたためか、ハザードをつけて車を停車させた。ただ、いずれにしても、いつもどおり大した揺れを感じることもなく、再び動き出そうとしていた時である。

 

午後4時10分。

 2度目のアラームが鳴る。ふと前方を見ると、線路脇の林から夥しい数の鳥が飛び出てきて、前方の空を覆った。「うわあ、見てよ、鳥がすごいよ。」後部座席に座る妻と子供に話しかけ、再び前方を見た直後、凄まじい揺れに襲われた。

 それはこれまで経験したどんな地震よりも大きいものだった。電信柱や電線、道路、目の前に見える全てのものが左右に揺さぶられているだけでなく、自分たちが乗っている車もまた大きく左右に揺れ、突然の揺れに長女が窓ガラスに頭を打ちつける。車はこのまま横転してもおかしくないくらい揺さぶられ、今安全な所などどこにもない、そんな状況だった。

 どれくらい経ったか、時間にして30秒くらいだったかもしれないし、もっと短かったかもしれない。永遠のように長い数十秒が終わり、状況が飲み込めずにいると、カーナビが強制的に緊急速報に切り替わった。そんな機能があったのか、とそれ自体も驚きだったのだが、それよりもその緊急速報に耳を傾けたかった。

 どの局から流れている放送なのかもわからない。「大地震です!大津波警報が発令されています!逃げてください!早く逃げてください!」女性が繰り返しそう叫んでいたことは覚えている。僕は鳥肌が立った。なぜなら、僕らは海沿いにいたからだ。脳裏に浮かんだのは他でもない、東日本大震災津波の光景だ。全てを飲み込んで多くの命を奪ったあの津波。あれが迫ってきているのだとしたら、一刻も早く内陸に逃げなければ、死んでしまう。動揺しながらも、ハザードを消して、再び走り出した。

 走り出してわかった。道路には多数の亀裂が走り、危険な箇所がいくつもあった。どの車も道路も裂け目を避けつつ、内陸を目指す。線路と並行に走っているため、電車が非常停止した影響で遮断機は上がらず、線路の向こう側に行くことができない。残る方法は、線路から離れ、橋を渡ることで中能登町に戻るというものだった。国道1号線を走り、小丸山公園の交差点を右折、橋を渡れば中能登町に戻ることができる。信号が青になり右折、あと50m程度というところで対向車の男性がこちらに向かって何か叫んできた。「Uターンして!崩落している!」先に見える光景に息を呑んだ。白いミニバンの前半分が、崩落した橋に乗り上げ、身動きが取れなくなっていた。

 海から離れることができない。頭の中はいたって冷静だった。混乱はしていなかった。冷静に絶望していた。緊急速報のとおり大津波が迫ってきているのだとしたら、僕らに残された時間は僅かしかないと思った。橋が崩落していることを知らない車が次々と流れ込んでくる。僕らはすぐに引き返し、別の道を探す。しばらく海沿いを走っている間も大津波警報は鳴り止まず、アナウンサーは不安を煽る。冷や汗と迫り来る死の恐怖とは裏腹に、心臓の鼓動も思考もただひたすら平静を保っていたことを覚えている。逃げ惑う車は、この非常事態において不思議と連帯感が生まれ、皆で助かろうという意識からか、道を譲り合い、内陸を目指した。ようやく渡れる橋を見つけ、内陸へと走ることができた。海から段々と離れていくことに安堵するのも束の間、中能登町への道のりもまたひどいものだった。割れた道路、潰れた家。とにかく義父母や、一人残してきた長男も心配しているだろうから、家へと急いだ。

帰省

令和6年1月1日午後4時10分

令和6年能登半島地震、発生。

 

 帰省先である石川県中能登町に到着したのは12月30日。前日に小布施の温泉宿に一泊したのち、3時間半程度で帰省先の義実家に到着した。いつもどおりののんびりした年越し、強いて言えば暖冬の影響か雪が全くなかったことが印象的だった。

 中能登町の隣は、和倉温泉という石川県有数の温泉街を有する七尾市。家から車で10〜15分程度で気軽に温泉に入れるので、個人的には帰省の度に行きたい、と思っているのだが、色々な事情で行ける時もあれば行けない時もあって、今回は小布施の温泉に入ったこともあり、和倉温泉にもぜひ行きたいと思っていた。1月3日には自宅に帰る予定だったのと、2日は妻が友人と会う予定があったので、のんびり温泉に行けるのは1日だけかな、ということで1日の午後に行くことになった。

 

令和6年1月1日。

 和倉温泉には「総湯」という日帰り温泉施設があるのだが、調べたところ、元旦は午後4時閉館とのことだった。本当は夕方のんびり入ってくつろいだ後、6時か7時くらいに帰ろうかと思っていたので短縮営業となっていたのが少し残念だったが、それでも入れるのなら入りたいと思い、行くことにした。

 

午後2時45分。

 2歳になる次女の昼寝に付き合っていたら少し遅くなってしまい、ようやく家を出ることができた。8歳の長男はさほど温泉に興味がないのと、義姉と従兄弟と一緒に遊んでいる方が楽しいということで温泉には行かず留守番することになった。僕と妻、それに4歳の長女と2歳の次女の4人で和倉温泉に向かった。午後3時には和倉温泉についたが、観光客と、同じように日帰り温泉を楽しみたい地元民で駐車場は満車、仕方なく車は少し離れた場所に止め、総湯へ向かった。

 

午後3時55分。

 総湯のスタッフは割とドライに追い出しをかけ、妻は脱衣所のドライヤーが空いていなかったため、髪が乾かせないまま退館する羽目になった。自宅まで大した距離でもないし家で乾かせばいい、そう思えば諦めもつく。こういう時自宅が近いのは助かるなあ、そんなことを考えていた。

 和倉温泉を離れ、JR七尾線和倉温泉駅の駅前交差点を左折すると国道1号線に出る。国道1号線七尾線と並行に走っており、線路のすぐ脇を走ることになる。左手側には海が広がっている。実際には少し内陸に入っているので国道1号線を走る時海を見ることはできないが、すぐそばには海があるのだ。右手には線路とその先に林や田んぼが広がる長閑な風景。電車は2両編成で、絵に描いたような田舎という風景が、僕は好きだった。