僕の備忘録

今日という日を忘れないための、備忘録です。

被災

午後4時6分。

 けたたましく携帯が鳴る。久々に聞いたこの音、いつ聞いても心臓に悪いし、嫌な気持ちになる音だ。ただ、ここ最近はこの音が鳴ったところで大した地震が起きたということもなく、うるさいなあ、と思う程度だった。

 僕は忘れていたのか、それとも初めて聞いたのか、全く記憶にないのだが、このとき地震を知らせるアラームが2種類あることに気がついた。よく聞くアラームは、それに併せて「緊急地震速報 石川県で地震発生 強い揺れに備えてください(気象庁)」とポップアップが出る。その後続けて鳴ったのが初めて聞いたアラームで、ピンポンパンポンというチャイムのような音とともに「大地震発生!緊急地震速報!強い揺れに警戒してください。窓ガラスから離れてください。上から落ちてくるもの、横から倒れてくるものに注意してください。(七尾市)」というポップアップが出た。やはり、こんなものを見た記憶はなかった。

 交通量は差して多くなく、200mくらい先に1台、後ろに1台、対向車もやはり100mくらい先に1〜2台いる程度だったが、どの車も緊急地震速報を聞いたためか、ハザードをつけて車を停車させた。ただ、いずれにしても、いつもどおり大した揺れを感じることもなく、再び動き出そうとしていた時である。

 

午後4時10分。

 2度目のアラームが鳴る。ふと前方を見ると、線路脇の林から夥しい数の鳥が飛び出てきて、前方の空を覆った。「うわあ、見てよ、鳥がすごいよ。」後部座席に座る妻と子供に話しかけ、再び前方を見た直後、凄まじい揺れに襲われた。

 それはこれまで経験したどんな地震よりも大きいものだった。電信柱や電線、道路、目の前に見える全てのものが左右に揺さぶられているだけでなく、自分たちが乗っている車もまた大きく左右に揺れ、突然の揺れに長女が窓ガラスに頭を打ちつける。車はこのまま横転してもおかしくないくらい揺さぶられ、今安全な所などどこにもない、そんな状況だった。

 どれくらい経ったか、時間にして30秒くらいだったかもしれないし、もっと短かったかもしれない。永遠のように長い数十秒が終わり、状況が飲み込めずにいると、カーナビが強制的に緊急速報に切り替わった。そんな機能があったのか、とそれ自体も驚きだったのだが、それよりもその緊急速報に耳を傾けたかった。

 どの局から流れている放送なのかもわからない。「大地震です!大津波警報が発令されています!逃げてください!早く逃げてください!」女性が繰り返しそう叫んでいたことは覚えている。僕は鳥肌が立った。なぜなら、僕らは海沿いにいたからだ。脳裏に浮かんだのは他でもない、東日本大震災津波の光景だ。全てを飲み込んで多くの命を奪ったあの津波。あれが迫ってきているのだとしたら、一刻も早く内陸に逃げなければ、死んでしまう。動揺しながらも、ハザードを消して、再び走り出した。

 走り出してわかった。道路には多数の亀裂が走り、危険な箇所がいくつもあった。どの車も道路も裂け目を避けつつ、内陸を目指す。線路と並行に走っているため、電車が非常停止した影響で遮断機は上がらず、線路の向こう側に行くことができない。残る方法は、線路から離れ、橋を渡ることで中能登町に戻るというものだった。国道1号線を走り、小丸山公園の交差点を右折、橋を渡れば中能登町に戻ることができる。信号が青になり右折、あと50m程度というところで対向車の男性がこちらに向かって何か叫んできた。「Uターンして!崩落している!」先に見える光景に息を呑んだ。白いミニバンの前半分が、崩落した橋に乗り上げ、身動きが取れなくなっていた。

 海から離れることができない。頭の中はいたって冷静だった。混乱はしていなかった。冷静に絶望していた。緊急速報のとおり大津波が迫ってきているのだとしたら、僕らに残された時間は僅かしかないと思った。橋が崩落していることを知らない車が次々と流れ込んでくる。僕らはすぐに引き返し、別の道を探す。しばらく海沿いを走っている間も大津波警報は鳴り止まず、アナウンサーは不安を煽る。冷や汗と迫り来る死の恐怖とは裏腹に、心臓の鼓動も思考もただひたすら平静を保っていたことを覚えている。逃げ惑う車は、この非常事態において不思議と連帯感が生まれ、皆で助かろうという意識からか、道を譲り合い、内陸を目指した。ようやく渡れる橋を見つけ、内陸へと走ることができた。海から段々と離れていくことに安堵するのも束の間、中能登町への道のりもまたひどいものだった。割れた道路、潰れた家。とにかく義父母や、一人残してきた長男も心配しているだろうから、家へと急いだ。